設立からの歩み

よつ葉乳業の設立からの歩みについてご紹介致します。

よつ葉乳業は北海道の酪農家資本の会社です

皆さんは、「よつ葉乳業」が酪農家資本の会社であることをご存じでしょうか。皆さんに当社設立の背景を知っていただき、当社と日本の酪農の歩みについて考えていただくことが、重要なことと私達は考えています。まずは、当社設立時の背景を振り返ってみましょう。

設立時の風景

わが国の経済の高度成長は昭和35年頃から始まりましたが、この高度成長の中、農業の占める地位はどうあるべきかということについて、農業の憲法とも言われる「農業基本法」が昭和36年に制定されました。その内容は、所得均衡・自立経営・選択的拡大を謳ったもので、これを基に農業政策が展開されてきましたが、当初農民が期待したような結果にはならず、農業から離れていく人々が大幅に増え続けました。とくに北海道は、機械化への移行や数年ごとに見舞われる冷害などから農家の負担は増える一方であり、更に豊作の時は農産物の値段が大幅に下がるなど、農民の生活は非常に苦しいものでした。
これらのことから、生産した農畜産物の販売について単なる原料としての販売から発展し、これらを加工して付加価値を高め、農業収入の安定を図るべきだとの認識が農民に生まれ、馬鈴薯(ジャガイモ)でんぷん工場、ビート(サトウダイコン)工場などを建設し、所得の向上に大きな成果を上げてきました。

しかし、北海道の酪農が既存の乳業会社に育てられたという歴史的な経過の中、酪農家と乳業会社の結びつきは強く、酪農家自らが乳製品工場を持つべきだとの意見が一部にはあったものの実現には至りませんでした。当時、乳業会社は儲けていながら酪農家に低い乳価を押しつけ、乳製品の売れ行きが悪いといっては、更に乳価を下げることもありました。また冬には乳量が減るにもかかわらず、冬期乳価という安い乳価設定や牛乳が余ると買入れ拒否を行うなど、酪農家の生活は不安定な状況でした。

このような状況が続き、酪農家の不満は募る一方でした。遂にたまりかねた北海道の酪農団体が、政府に対して酪農経営の安定、政策の確立を強く迫り、昭和40年に「不足払い法」が制定されました。これは酪農政策としては画期的なものであり、それから数年間は乳量も年率10%以上の増加率を示し、離農跡地の活用を含めて経営の規模は拡大しました。そして、昭和41年9月、「生産者団体自らが乳製品工場を持っても良い」という内容の農林省(当時)畜産局長通達が出され、これが当社設立に踏み切る一つの原動力となりました。

設立理念

一方その頃、北海道十勝管内士幌農協組合長でありホクレンの地区常務理事でもあった故・太田寛一氏は、欧州農業視察において、欧州の乳製品工場のほとんどが協同組合組織で運営され、酪農経営の安定に寄与している状況をつぶさに見て、十年来、抱き続けてきた、酪農家が持つ乳製品工場の夢と完全に合致したとの感想を持ちました。そして、昭和41年11月16日、十勝管内の8農協による第1回目の協議会が開催され、その後、十勝管内農協組合長・ホクレン・北海道に工場建設の協力が要請されました。12月14日にホクレンは工場建設の支援と資本参加を決定し、十勝農協連・士幌農協を始めとする十勝管内8農協も、それぞれ会社設立発起と株式取得を決議しました。

技術支援は、全酪連(全国酪農業協同組合連合会)に協力を要請し、快諾を得ました。当社設立の動きが表面化すると、それまでの大手メーカーによる独占体制が崩れるだけに、抵抗も大きく、多くの試練がありましたが、酪農家の結束は固く、昭和42年1月22日、帯広市における設立総会、そして翌23日の登記完了をもって当社は正式に発足、工場の建設が開始されました。昭和42年10月10日、最新鋭の輸入機械を中心とした十勝工場(現・十勝主管工場)が完成し、同月30日からバター・脱脂粉乳の製造を開始しました。

酪農家とお客様を結ぶ架け橋

今日までの間には不況による商品の極度の売行き不振等があり、非常に苦しい時もありましたが、酪農家や関係団体の支持と役職員の努力により、現在は、よつ葉ブランドの牛乳・乳製品を全国にお届けする総合乳業メーカーへと発展しています。

当社設立の理念は、少数従業員による徹底した合理化加工工場運営を行い、牛乳価格の安定を図ることにより生産性を高め、酪農の恒久的振興を期すること。一言で表せば「酪農民の、酪農民による、酪農民のための工場」ということです。酪農家と共に歩むことが当社の使命であり、この使命は今後も変わりません。「良質な牛乳・乳製品を安定供給する」ことを使命とし、「酪農家とお客様を結ぶ架け橋」として、当社はその社会的責任を果たしてまいります。